2008年8月の日記。
じいちゃんの戦争体験記です。
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8月15日はじいちゃんの誕生日でした。80歳です。
戦没者追悼式をじいちゃんとふたりでみていたら、珍しくじいちゃんが戦争の話をしてくれました。
じいちゃんは昭和3年8月15日に生まれたので、終戦した昭和20年8月15日で満17歳。
終戦まで軍属として2年ちょっと徴用されていたというので、おそらく14歳、15歳とかで戦争へ行っています。
どこからなんと言う名前の人がきて、一緒の船に乗った、というのをちゃんと覚えていました。
そこで、軍の人に「おまえたちは消耗品だ」といわれたそうです。
じいちゃんは激戦地であった南方戦線(サイパン・トラック島のほうらしいです)に食料や物資を運ぶ仕事をしていました。
徴用された時は、「勝ち戦」だったけど、どんどん戦況は悪化。
南方の島に物資を運ぶのも大変困難になってきたそうです。
途中、アメリカの潜水艦が現れ、交戦したこともあると、初めて聞きました。
そのとき、船に13人の人が乗っていて、甲板にいた人たち(全船員の半数)はみな殺されました。
じいちゃんは機関室にいたから助かったと言っていました。
実際島に上陸しても、軍のところまで物資を運ぶのは本当に命がけで、手榴弾を2発渡され、「もし敵に会ったら、一発で一人でも殺すこと。捕虜になることは絶対にいけないから、もう一発で自決すること。」
と命じられたそうです。
ズボンの右と左のポケットにひとつずつ手榴弾をいれていたといっていました。
「だから、今沖縄で日本軍が自決を強要したとかしてないとか言ってるけど、ああいうことは本当にあったことなのだよ」と、ぽつりと話してました。
サイパンが玉砕したときは、隣の小さな島にいたからじいちゃんは助かった。
36隻いた軍属の船は、最後7隻しか戻ってこられなかったそうです。
「80年、いろんなことやって生きてきたんだよ」と、最後にじいちゃんは笑いました。
その笑顔の裏にはきっと、口に出来ない経験もあるのでしょう。
聞けなかったけど、もしかしたら敵に向けて手榴弾を投げたのかも知れない。
でも、自分に向けた2発目は使わなかった。
だからお父さんがいて、私がいて、みんながいる。
おじいちゃんの戦争の話は、記録として、何でもいいから形に残したい。
そして、わたしの子どもに、次の世代に伝えたいと、本当に思った、63回目の夏。