今日は、7回目の3.11です。
今日は、鮫のマリエントで地震と津波の写真展をやっていたので妹と見に行きました。
あの日、わたしは日本にいなかったし、八戸は岩手・宮城・福島に比べたら被害も少なかった。だけど、いつも実家に帰るときに車で走る道のすぐ下まで津波が来ていた写真とか、蕪島が黒い波に取り囲まれてる写真、館鼻の岸壁に船がひっくり返ってる写真、工業地帯の道路に流された車が散乱する写真など、改めて見て、八戸もこんなに大変だったのかと、恐ろしくなりました。
あの日から、3.11は、家族と過ごしたり、自分の生き方を見直したりする日にしています。
頑張れてるか。楽しく生きられているか。当たり前に慣れてしまっていないか。
あの日亡くなった人の分まで、なんて大それたことは思ってないけど、わたしが生かされている意味ってなんなんだろ?って考える日が年に一回くらいあってもいい。
2011年3月11日にわたしがどこにいて何をしていたか。記憶をつらつらと書きとめておきます。
当時わたしはもじゃ王(元夫)との世界一周中で、地球の裏側のブラジルにいました。
3月10日の夜、ボリビアから夜行列車に乗り、ブラジルのコルンバという町を目指していました。
現地時間3月11日の朝7時頃(日本との時差は12時間。日本が12時間進んでいるのでこの時日本は夜7時頃)、コルンバの駅に到着。7:30には宿に入り、荷物を降ろしてパソコンを開きました。
ヤフーのトップには「東北で大地震」の文字が載っていました。最初はあまり気にしていませんでした。東北は地震が多い地域で、あの日の2日前の3月9日にも地震があったので、その余震だろうと思っていました。「また地震か」っていうくらいにしか感じていませんでした。
メールをチェックすると、八戸の実家から一本のメールが入っていました。
「東北で大きな地震がありました。八戸は大丈夫です。心配しないでください」といった内容だったと思います。
そのとき、宿のスタッフのおじさんが私たちに話しかけてきました。
「おまえら、日本人か?」
そうだ、と答えると、「日本が大変なことになってる」と、テレビを見せてくれました。
そこに映し出されていたのは、真っ黒い波が堤防を越えて車を飲み込んでいく映像でした。
なにが起こっているのかまったくわからなかった。わたしたちの故郷は、想像をはるかに超える大惨事になっていました。これまで、わたしも三陸はるか沖地震とか、たくさん地震を経験してきたけど、そのどれよりも大きくて、恐ろしい地震が故郷を襲っていたのです。
メールもブログも、日本にいる友だちからのわたしたちの家族の安否を心配するメッセージで溢れていました。
ネットを検索していても、地震発生から4時間も経っているのに情報はかなり錯綜していて「仙台・荒浜に200人の遺体」といった内容とかが流れていて、まったく飲み込めませんでした。
とにかく、東北が大変なことになった。
それだけは理解した。
わたしたちは3月11日から2ヶ月くらいかけてブラジルをまわる予定でした。もじゃ王はブラジルが大好きだから時間をかけるつもりでいたのです。でも、故郷がこんな状態で、気持ち的にも旅を続けられるはずもなく、旅をやめて帰国することにしました。
コルンバからサンパウロへ移動して、ユナイテッド航空のオフィスに行きました。わたしたちのフライトチケットはペルーのリマ往復のチケットだったので、帰りのチケットをサンパウロからに変えてもらえないか、とお願いしに行きました。窓口のお姉さんに「わたしたちの故郷が地震と津波でやられてしまった。どうしても帰りたい」と伝えると、チケットをサンパウロから出国できるように手配してくれました。ありがたかった。
サンパウロではもじゃ王の心の友が住んでいるので、その家族にお世話になって3日ほど滞在しました。その間にもじゃ王は、ヤフオクで車を落札して、帰国と同時に手に入れる算段を進めていました。
わたしは、日本にいる友人たちと連絡をとり、特に沿岸部に暮らす友人たちの安否確認に勤しんでいました。釜石に住んでいる友だちが3月11日の夜にあの混乱の中で産気づき、無事に女の子を産んだというニュースを聞き、ブラジルで大泣きしました。
帰国の日、もじゃ王の友だちのママが泣きながら「日本は本当に危ない、なにが起こるかわからないから行って欲しくない。でも、気をつけて行くんだよ」と送り出してくれました。ワシントン経由で、1週間後に成田空港に着きました。
あの日を境に人生が変わった人がたくさんいた。絶対なんてないしほんと人間いつ死ぬかわからない。
すっごいことしなくてもいいから、毎日寝るときに「今日も楽しかったなぁ」と思って眠り、いつ死ぬとしても「あぁ、わたしの人生も悪くなかったなぁ」と思えるように、これからもゆるく楽しく生きていきたいと思います。