気づけば1月がもう半分過ぎている。
40代に入ってから時間が経つのが早すぎる。そしてなぜか急に人生の残された時間を考えるようになった。元気に動けるのもあと30年とか?市内とはいえ家族と離れて暮らすわたしも、いつどこでなにがあるかわからないと、先日免許の裏に臓器提供のサインを書いた。できれば死ぬまで自分で生活していたいけど、どうかな。死んだときもあまり迷惑をかけないようにしたいけど、できるかな。先のことは誰にもわからないのでなんとも言えぬ。
1月に入ってから、とある取材に同行する機会があり、最後に「これからの野望は?」という質問があった。野望って聞くとなんだかすっごいこと言わなきゃいけなそうなきがするけど、実際どうなんだろう。
野望
①身のほどを越えた、大きな望み。
②望んではならない不届きな望み。非望。
まぁすっごいこと言わなきゃいけなそうという感覚とは大きく違わなそうだ。ちなみに展望とはどう違うのか。
展望
①遠くの方まで見渡すこと。ながめ。見晴らし。
②ひろく社会の出来事を見渡すこと。
つまりは野望は個人的なことかつ身の程知らずな大きな夢、展望は世の中のこと、もっと先のことに対して使う言葉なのかなと理解した。ひとつ賢くなった。
コロナの間撤去されていたガラガラが戻っていた。お賽銭を入れた後、さてこれはいつどこのタイミングで鳴らすんだったか、すっかり忘れてしまっていた。神様に高望みするのもなんだかなぁと思って、毎年「今年も元気で楽しく一年健康に。よろしくお願いします」と挨拶する。しかしふと、40代に入ったらこれはあいさつではなく展望であり野望なのかもしれないと気付く。
そういえば、1月から始まったドラマ「君が心をくれたから」を見たが、永野芽郁ちゃんと山田裕貴くんのラブストーリーなのかなと思ったら、人生には限りがあることをある意味残酷な形で描いているドラマであった。だからかな、今年の年始は自分のこれまでとこれからを無駄に深刻に考えている気もする。
今年はもうちょっと自分をいたわりながら暮らせるといいな。
ちなみに、お参りのあと、蕪島近くのかぶーにゃにて甘酒を飲みながら体を温め、ストークドドーナツでもお買い物ができて、ほっこりと満足した気持ちで蕪島を後にした。やっぱり蕪島は鮫生まれ鮫育ちの私にとっては最高のパワースポットなのである。